鎌倉街道を往く

鳩山町から毛呂山町へ

街道筋と集落(郷村所領)の境界について、次の趣旨の調査結果が報告されています。

 

     「鳩山町史編纂調査報告書」 第7集 鳩山の中世 第6章 鎌倉街道

            鳩山町史編纂委員会(2004.3.31)発行

 

「鎌倉街道の名称は、江戸時代に地誌編纂の過程で古道に対してつけた造語である。
古文書の中では、村郷の境界を定めるのに、大道、中道、路の表記が見られる。

大道は国道、中道は県道、路は町村道を指す物であり、鎌倉街道は大道あるいは中道に当たる物であろう
古代では、国衛と国衛、群衛と群衛をつなぐ官道は、道幅12mの規定で造られたと言われており、鎌倉街道の大道はそれを引き継ぐものであろう。」

 

即ち報告書は、村郷の境界線が判れば、大道(鎌倉街道)の道筋がほぼ推定できると述べています。


「道筋は、苦林宿のあった苦林と大類堺(毛呂山町)を北上し、越辺川を渡河して小用-赤沼堺、大豆戸-赤沼堺、泉井-水沼堺、須江-奥田堺を抜けて笛吹峠に向かう道筋である。」

報告書に従えば、笛吹峠を超えた古道は鳩山町大橋に下り、現在の県道42号線~171号線に沿って今宿付近に至ります。

 

現在の171号線は、今宿交差点を直進して越辺川を渡り毛呂山町に入りますが、当時の越辺川は現在より北寄り(おしゃもじ山の山裾)を流れていたため、今宿付近は急峻な崖状になっており渡河には適さなかったようです。

 

このため古道は、越辺川の左岸に沿って上流に回り、毛呂山町大類付近で越辺川を渡渉したと言われています。

鳩山町内の古道周辺地図

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